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さざえ堂 物見ヶ岡に残る「龍の堀に浮いて」と詠まれた龍ヶ城の残映
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磐城平藩戊辰戦争戦没者墓地 戊辰戦争の弾痕
龍ヶ崎美術館 丹後沢
中門櫓(ちゅうもんやぐら)石垣 内堀跡を走るJR線
JRいわき駅北口前方に、かつて赤目崎物見ヶ岡(あかめがさきものみがおか)と呼ばれた高台があります。この一帯はかつて優美な三層櫓を望めた磐城平城跡で、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで中立を保ったかどで所領を没収された、中世以前からの夏井川下流域好嶋庄(よしましょう)の地頭岩城氏に代わり、徳川幕府譜代大名鳥居忠政が下総国(しもうさのくに=現千葉県北部)から入封し、磐城平藩を樹立して築城した城跡です。
入封の翌年から12年の歳月を費やし、渓谷に包まれた自然の要害を利用して内外に二重の堀を巡らし、10数丈(1丈(じょう)=約3.33m)の石垣を持つ難攻不落の梯郭式平城(ていかくしきひらじろ)は、時の将軍家康から北の勢力伊達政宗への牽制の命を受けての築城で、郭内の堀の形が「龍」の草書体に似ていることから「龍ヶ城」とも呼ばれ、城下に面した物見ヶ岡に立つ三層櫓の雄姿を「磐城名物三階やぐら龍のお堀に浮いて立つ」と歌にも詠まれ、天下の名城と謳われたといわれています。
21年間の治世を経て鳥居氏が山形転封の後、上総国(かずさのくに=現千葉県中部)から内藤氏が入封して125年、その後1756年(宝暦6年)美濃国(現岐阜県)の安藤家が入封し、明治の廃藩置県に至るまで連綿とした譜代大名の治世が続きました。
安藤家第5代藩主安藤信正は、1860年(安政7年)の「桜田門外の変」の後、幕府老中として公武合体(こうぶがったい)※1を進めたことで尊攘派に反発を買い、1862年(文久2年)「坂下門外の変」で水戸浪士の襲撃を受けて負傷し、度重なる襲撃事件で幕威の失墜を加速させたかどで老中を罷免され、隠居・蟄居(ちっきょ)※2を命じられ、磐城平藩の所領は4万石に減封されました。
1868年(慶応4年)の戊辰戦争では、若年の7代藩主信勇に代り信正が藩政を指揮して奥羽越列藩同盟に加わり、品川から海路で新政府軍が勿来の平潟へ上陸すると、泉藩、湯長谷(ゆながや)藩への攻勢で次々と占拠され、攻撃の手を休めない新政府軍はたちまち平城の外堀まで達しました。砲弾は欠乏を来たして補給もままならず、寡兵をもって防戦するも衆寡敵せずで、支えきれずに自ら火を放って城は灰燼に帰しました。

※1:幕末期、朝廷と幕府や諸藩との政略結婚を成立させ、幕威の復活と再編強化を図ろうとした政策。※2:江戸時代の武士に科せた刑罰。閉門し、自宅や一定の場所に謹慎させること。

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